昭和48年12月18日 朝の御理解
御理解 立教神伝(最後のところ)
「此の方ように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取り次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子も立行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁昌いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立行き。」
御神意を体してと言う事は、よく申します。私は立教神伝の一番最後の、ここの所以外にすらないとさえ思います。御神意を体することは、ここのところのわかる以外にはないと思います。氏子繁昌いたしてくれとだけではない、氏子繁昌してくれ、そして末々は親にかかり、子にかかり、あいよかけよで立行く。私共が助かると言う事がそのまま、神様の助かりに繋がると言う事。
そういう意味で合楽で繰り返し皆さんのお願いなさっておるであろう五つの願いということは御神意を体した、願いが出来るところに、五つの願いの素晴らしさがあると思うんです。御神意を体せずに、只自分が健康でありさえすれば良い。自分の家が家庭が円満でありさえすれば良い。自分の家だけがいよいよ、子孫繁昌になっていけば良いと言う様なことでは、私は御神意を体しての願いにはならないと思う。
その御神意を体して、五つの願いが願われるところにです、いわゆる最後のところの真実の御用、いうなら、本当の意味に於いての仕事、本当の意味に於いての働く働き、本当の意味に於いての奉仕、これが四つ目の願いの中心ですね。仕事というのは、銘々が天職として頂いておる、百姓しておる者、商売をしておる者様々にです、その仕事、仕事そのものがいうなら御用なんだ。なら御用と言う事はどう言う事かと言うと、仕事である。仕事と言う事はその事に仕えると言う事。
不精、無精で自分の仕事をしておると、どう言う事になるでしょうか。それは仕事にはなりませんですね。それは只いうなら、食べるために働くと言う事以外にはならないのじゃないか。生活のための仕事と言う事にしかならん。それを最高のもの、高度なものにするところに信心があるのです。いわゆる御用さして頂いとるんだと、神様のお役に立たせて頂いておるんだと。いやその事に仕えておるんだと。仕事とはいうならば、どうぞ御用させて下さい。
そのかわりその御用は生活のため、食べるためのせいであるとするならば、それは御用ではなく私用である。私の用である。御用と言う事を数字の五にしまして、いうなら私用と言う事を数字でいうなら良いです。一つ足らんのである。仕えておることは同じであっても、その思いが一つ足らんのである。ああ忙しか忙しか、こげな仕事は孫子までさせることじゃなかと言う事をよく言います。いわゆる自分の仕事、自分の私用に、食べるために仕方ないから働いとるという事になるわけです。
働いておる、働くと言う事は、はたが楽になると言う事のためです。例えば百姓なら百姓をしておればです、それだけ社会が潤うのである。私がならこうやって御用をさせて頂いておればです、合楽教会によって、信心によって皆が助かって行く働き、はたが楽になって行くと言う事である。最後の決め手ともいう、神願成就の事の為の御用の端にでも使って頂きたいという五つの願い。最後の願いなどでは、御神意を体しておらなければ、出てこないことなんである。只称え言葉であってはならん。
お役に立ちたい、立ちたいの一念が、どうぞその神願御成就のその最大のものというか、最高のものを私は、和賀心と頂いておる。しかもその和賀心の時代、その和賀心時代を自分の心に自分の家庭に、自分の周辺にまで拡げて行こうというのである。そのための大事である所の体の丈夫を願わなければならない。只願うだけではない。そのためには反対に体を疎かにする様な、いうなら、大酒大食的なことは決して慎ませ頂くという修行がなされなければいけません。
それこそ「ノミ」にも食わせちゃならないこの大事な体である。何故かというとね大望のためにね、いうならば、神様の願いの為に、この五体を使うてもらわなきゃならんのだから、それこそ「ノミ」にも食わせちゃならん。この大事な体であると言う事である。そしての体の丈夫でなからなければならん。家庭に不和のなきが元と。本当に家庭に不和のなきが元と言う事はです。
いうなら、和賀心時代を創ろうと言う様な、大きなそういう願いを持つ者はです、等しくそのことに心さしてもろうて、家庭円満のおかげをまずは自分の家庭の中に頂かなきゃならん。どうぞ家庭が円満になりますように、円満になりますようにと言った様な事だけではなくて、そのためには、成程人間相対しておる中には、気分の良い時もあれば、気分の悪い時もある。
暗い時もありゃ、心が明るい嬉しゅうなることもあるけれどもです、そこんところを和の心一つに絞って行こうと言う事のために、決して自分を責めても、人を責めるようなことはいたしませんといったような修行が私はなされなければいけないと思う。とりわけ私は子孫繁昌、家繁昌ということを最近、みんなが言うとられますようにです、信心の継承ということに非常に苦労しておる。
今の金光教は、若い者が少ない 家庭でもおじいちゃんはしござるけども、お父さんはしござらん。お父さんはしござるけれども、子供がついちゃこんと言った様な、信心の継承ということに、それでは子孫繁昌、家繁昌はおぼつかない。本当に信心の継承がなされなければここんところを祈り願って、子供が孫がその信心を、本気で頂いてくれる程しのお繰り合わせを頂かない限りです、子孫繁昌、家繁昌をただ願っただけじゃつまらんというようにです。
例えば、五つの願いと言う事が、そう言う様に例えば、立教神伝の一番最後のところ、御神意を体してと、体すると言う事はそこだ。私共が繁昌しなければ、まずは私共がおかげを頂かなければです、しかも只、おかげを頂くと言う事が、小さい意味に於いてでなくて、御神意を体しての繁昌の願いでなければならん。そこからです末々親にかかり、子にかかり、あいよかけよで立行く道が顕現されてくるというのです。
現れてくるというのである。私は今朝御心眼にお芝居、歌舞伎十八番のあの、勧進帳を頂いた、場面をあの山伏問答のところで、あの空読みをします、勧進帳の空読み、その弁慶がです、こうして睨んでおるところは良いけれども、人の足許のところばっかり睨どるといったような情景を頂いた。勧進帳というのはあの弁慶が、四十七名ですか、義経と共にね、六名ですかね、安宅の関を越えなければ向こうに逃れて行けない。ここが関所だ、もうぎりぎりの場面なんです。
勧進帳を本当に持ってりゃ通れるんだけども、本当は持っていないのだ。山伏のそれこそ、山伏に時々化ける源氏方といわれる程しにです、山伏に化けとるのですから、源頼光も山伏のあれでね、そういうところからあの句ができたんです。句じゃない川柳ですね。山伏の真似だから、形だけなんだから私共がです、繁昌してというおかげを頂くと言う事はやはり、その安宅の関じゃないけれどもその関所をいわば、越え越えしていかにゃいけんです。それを信心では節という。
その節を様々に越えて行かねばいけない。合楽に御縁を頂いて、今、根かぎりの修行しとられる方があります。その方はいうなら、安宅の関に匹敵するようなもの。だからここを越える為にはです、私は腹が出来なけれは駄目だと思うんです。いわゆる度胸なんです。もう前には進んでも後には退かん。もういうなら、不退転と申しましょうか、背水の陣というか、そういう心がけがこの関を越えるためには要るのです。
それには例えば、昨日のお話の中にある、便所の横にある南天じゃないけれども、臭さを感じさせない、お重箱の中に南天の葉が入っとっても、それを汚らしゅう思わせない。どんなに難儀の中にあっても、あぁあの人はしるしかろうと、人から同情されるような修行じゃ駄目だと言う事。本当にあの人の生き生きした修行を見よるとこっちまで元気が出ると言った様な修行じゃなからにゃいけないと言う事。いうならば、あの勧進帳は弁慶のいうならば腹で通ったわけです。度胸で通うたわけです。
今度の御本部参拝には関さんと、綾部さんが、同じ娘達が初産をする。しかももう日にちは越えておる。けれども、御本部参拝から帰るまではです、神様がおかげ下さると信じ、又親先生にお願いしての、お届けであるから、もういうなら、ままよという度胸で本部参拝させてもらった。関さんのところは、参らせて頂いてから、そして無事男の子の安産のおかげを頂いた。
綾部さんは御本部参拝させて頂いて、十六日の合楽の報徳祭を頂かなければ、自分は動かれんのですから、そげん前に生まれるはずはなか、もう大分日にちは過ぎとるとじゃん、それも度胸です。あれだけ大体子煩悩な方ですけれども、もうそれこそ絹子さん、娘さんがおりますね。国東におられた、実をいうなら、早うから行って世話万端させて頂きたいのが親心です。
けれども、御本部参拝がすむまでは、報徳祭がすむまではと言うて、だからその御大祭がすんだ昨日、おかげを頂いたというてあちらへ行かれた。行かれたら昨晩、電話がかかっておかげで娘の子無事安産のおかげを頂いたと。私はそれをいつもの事ですけど、それを思うことはね、生きるも死ぬもこの神様のおかげを頂かなけれは出来る事じゃないという事ですよ。いうなら、神様が自由自在と言う事です。
死ぬるときだってそうです、先日の北野の中村さんところの話じゃないですけども、もうとにかく目は離されん言う位の状態だった。ところが御本部参拝のことがあったからお伺いして頂いたら、病人のことは神様にお願いして、御本部さして頂いたらおかげと頂いた。さあその御本部参拝する頃から、気分が快くなった。病人がそして機嫌よう参って来いと言う事になった。おかげで参った。
まあそれでも不安で不安でたまらなかった 帰ってからひよっとすると忌中の札が貼ってだんなかろうかと言う位に、やっぱり不安だった。ところが帰ってみたら大変に機嫌ようしとって、お土産のせんべいども頂いて、あの有名な遺言をしたわけです。遺言することは何にもなかった。当時のいうならば、合楽の先生によろしゅうと言う事じゃった。それが最後の言葉じゃったという程しに。
だから如何に生きる事生まれる事死ぬ事もです、神様のおかげを頂かなければ出来る事じゃない事が分るでしょうが。そういうおかげをはっきり現すためには、弁慶じゃないけれども腹がなけれはいかん。ここではね改まらんならんとか、研かにゃんとか言う事ではないです。おかげというのはいわゆる繁昌するおかげというのは腹なんです。信心の度胸なんです。出来る所に生きる事も、死ぬるもあなたのおかげを頂かして貰えるという。成程そうだなと合点せにゃおられないおかげが現れてくるのである。
同時にですこれはいうならば、関所を越すためにそういう度胸がいるのですけれども、勿論、親にかかり、子にかかり、あいよかけよで立行くことに段々なってくる時にです、本当に神様が喜んで頂くような、御用に使うて頂くと言う事になるとです。これはなら度胸だけじゃいかんのです、ええですかお役に立ちたい、立ちたいという一念を燃やしてもです、あなたに力がなかったら、一寸お金ば一万円ばかり出しなさいというたっちゃあなた、ございませんというたって、お役に立たんでしょう。
一寸この部屋を掃除さして下さいと言うたっちゃ、病気しとったら出来んでしょう そこんところにです、私は神様がね、いうなら丁度神様の御給仕する様なものおかいをするようなもの、神様の御用というものは、神様がままになられる事のための、働きをすることが本当の意味に於いての御用なんだ。神様がままになられる。私共がままになると言う事じゃない。それに顔は汚れとる手はてんでこう汚らしゅうしとる。
着るものはもうボロのごたるとば着とる。それで神様が御給仕を許されるはずがなかです。すきっとしておる。紋付き袴を着けちゃる。綺麗な恰好させて頂いとって、なら神様がお給仕の御用を許されるものですから、ここんところにはじめて、和賀心と言う事になってくる。和らぎ賀ぶ心と言う事を目指さして頂くことによらなければです、神様が本当には使うて下さらない 自分が峠を越す、自分が関所を越す。
自分がおかげを頂くと言う事においては、いうならば、綾部さんとか関さんとか中村さんの話のよう死、生きでもこの神様のおかげを頂かなければ、それには度胸が要ると言う事を聞いて頂いたように、関所を越す為には、そういう度胸おかげを頂く為だけならばです、いうなら、信心の度胸が出来れば、いや親先生まかせになっておけば、良いと言う事になりますけれども。
なら、今度お役に使うて頂くことになると、やはり心が綺麗に限りなく美しゅうならなければ、神様は用には使うちゃ下さらんという。そこから生まれてくるおかげ、二つのおかげ。度胸で頂くおかげ、いよいよ和賀心を目指さして頂いて、神様がね、その人でなければ出来んと言う様に、神様がいうならば、惚れ惚れとして見なさる位な私共にならせて頂かなけれはです、いわゆる親にかかり、子にかかりあいよかけよで立行くと言う事にはならないでしょうね。
どうぞ。